こんにちは。
ブログを見にきてくださり、ありがとうございます!
アラフォー主婦の『りこ』です。
私は、俗にいうHSPの傾向があり、特殊な家庭環境で甘えづらい環境で育ったので人に甘えるのが苦手な人間です。
自分の気持ちを正直に伝えるのもちょっと苦手なまま育ってしまいました。
その結果、社会で大きなストレスを抱えながら生きることが多く、つらさを感じるように……。
そんな私は今、のびのびと生きていくために『在宅ワーク』という手段を選んで頑張っています。
今回の記事は、そんな私が在宅ワークで頑張ろう!となった人生のお話です。
よかったら最後までお付き合いください。
私の基本情報
名前:りこ
好きなこと:料理🍳裁縫🧵旅行✈️温泉♨️
好きな場所:海🌊
好きな漫画:NANA
癒されること:寝ている愛犬を眺める🐶
幼少期:自分の気持ちを口に出せない子ども
自然豊かな田舎で生まれ育った私は、狭くて年季の入った家で、母と歳の離れた姉、祖母の4人暮らしをしていました。
今思い出しても本当に古い家で、玄関は木製の窓枠で曇りガラスの引き戸。
鍵は金属の棒を差し込むだけの簡素な作りで、今だとセキュリティ対策ゼロすぎて危ない。
狭いのに無理やり作ったのかな?と思わせる、傾斜60度くらいある急な階段が特徴的で、
アトラクションのように駆け降りるのが私の密かな楽しみでした。
私の母は、私が生まれてすぐに離婚していたので、祖母を含めた母子家庭。
ご飯の準備や洗濯物を畳むなど小さな頃から色々と祖母の手伝いをしていました。
大変だと思ったことはなく、むしろやりたいと率先してお手伝い。
ちょっとうまく卵が割れただけでもすごい!と褒めてもらい、
特に料理を作るのが楽しく大好きになりました。
夜に働いていた母とは、朝と保育園から帰ってきたわずかな時間しか一緒にいられなかったので、祖母と過ごす時間が圧倒的に多くいつも寂しかったです。
祖母も大好きだけど、やっぱりお母さんともっと一緒にいたい
でも、子どもながらに母の苦労を感じていて口には出せませんでした。
寂しいと言ったら困らせてしまう気がして甘えられず。
母に対してだけでなく周りの人の感情に敏感で、自分の発言によって誰かが困ったり感情を乱すのではと考えてしまい、自分の言いたいことを我慢する子どもでした。
女ばかりの家庭で育った私は、友達の家族を見て父親がいないことに
少し寂しさを感じることもありましたが、
そもそも生まれた時からいないので家に男の人がいる感覚がわからない。
でも漠然と『お父さん・お母さん・子ども』というよくある家族構成に憧れは持っていました。
中学1年生:知らない土地に行く不安
そんな私たち家族は、中学校に上がるタイミングで引っ越しをすることに。
友達と離れる寂しさと知らない土地で過ごす不安も、あまり口に出せなかった記憶があります。
しかし、新しい環境では、自分から話しかけないと友達ができないかもと心配になった私は、中学校からは積極的に話すことを決意!
元々恥ずかしがり屋で、あまり積極的に話せなかった私ですが、新しい学校に早く馴染もうと頑張りました。
しかし、ある日から全くご飯が食べられず病院へ……五月病という診断を受けました。
ストレスをかなり溜め込んでいたはずなのに、自分ではあまり気づかず。
急に食事を受け付けなくなった自分の体に、私自身が一番びっくりしていました。
無理をしていたのが影響し、気づかないうちにストレスを溜め込んでいたようです。
今思えば、仲の良かった友達と離れて寂しいとか、
新しい場所での友達作りに不安があったとか、
自分の気持ちを伝えるのが苦手で言えなかったことが原因だと思います。
この頃から自分の思いを口に出せないことで、心のコントロールがうまくできなくなり何度か体調不良になることがありました。
中学3年生:心にぽっかりと穴があいた母との別れ
15歳の秋、大好きな母が亡くなりました。
病気で何度か入退院を繰り返していましたが、そこまで悪いとは聞かされておらず。
母もまた、私を心配させまいとあえて本当のことは話さなかったんじゃないかなと今では思っています。
亡くなる少し前のお見舞いで、ベッドにいる母親が私の知っている母親ではないことに気づきました。
薬の副作用で手足はむくみ、角膜は濁ってゼリー状、目は開いているけど焦点が合わない。
ほとんど意識もない状態で、症状が急激に悪くなっていることをその時初めて知りました。
かなり大きなショックを受けたので、今でもその姿は脳裏に焼きついています。
それでも、お母さんなら大丈夫!きっと元気になってくれると信じていました。
家族が亡くなるなんて想像もできなかったからです。
しかし数日後、みんなに見守られながら母は息を引き取りました。
母が亡くなったことが信じられず、頭が真っ白に。
だけど、この場で私が大泣きしたらみんながもっと悲しむんじゃないか。
そう思うと泣けなくなって、病室を抜け出し外の公園で一人泣きました。
さらに、母が亡くなった直後にもまだ辛い出来事は続きます。
今度は祖母が骨折をして入院し、家に誰もいなくなってしまいました。
すでに姉は結婚して家を出ていたので、3ヶ月間一人きりで生活することに。
寂しい気持ちはもちろんありましたが、とにかく夜が怖くて怖くて。
小さい頃って真っ暗なところにどこかに連れていかれそうな変な恐怖ってありませんでしたか?
暗闇に包み込まれる感じというか……朝にならなかったらどうしよう、明るい場所に戻れなかったらと感じていて、一人暮らしの時は完全にメンタルをやられていたと思います。
そんな気持ちを感じていた記憶以外は、
この頃をどうやって過ごしていたのかあまり覚えていません。
ただ、ひたすら祖母の退院を願いながら、寂しさや恐怖に耐える日々でした。
しかし、この状況でも自分の気持ちを正直に伝えたり、
甘えたりすることが苦手だった私は何も言えず。
「大丈夫!大丈夫!一人暮らしでラッキー!」と明るく振舞っていました。
本当は寂しくて怖くて一人は辛かった。
でもみんなそれぞれの事情があるし、この状況で何かを言っても困らせてしまうだけ。
本当の気持ちは言えず、ただ時間が過ぎるのを待つだけという日々を過ごしました。
母が亡くなり、私を一番心配してくれていたのは姉や祖母。
でも二人に心配をかけたくなかったので、自分の気持ちは正直に伝えられず。
大丈夫!と言っていればみんなが安心するからと、無理して元気に振る舞っていました。
高校生と専門学校:学校生活は楽しいけれど母を思い出して泣く日々
母が亡くなり、祖母も入院し一人で生活していた時は、ちょうど高校受験の真っ只中。
祖母の退院を待ちながら勉強をしつつ、志望する高校へは無事に合格しました。
高校生活は本当に楽しい記憶ばかりですが、夜には部屋で一人母を思い出して悲しくなり朝まで泣いてしまうことも。
登校前には、祖母に見つからないように腫れた目を冷やすことも多々ありました。
高校卒業後は専門学校へ。
小さな頃から、自分の料理をみんなが美味しいと食べてくれるのが嬉しかったこともあり、迷わず料理の道を目指しました。
小学生の頃に初めて買ってもらった分厚い料理辞典は今でも大事に持っています。
飲食店勤務:小さい頃からの理想を叶えるために転職
専門学校の卒業と同時に祖母の家を出て一人暮らしを始め、イタリア料理店で勤務しました。
忙しい店だったので大変でしたが、料理の仕事ができてとても楽しかったです。
この時は、いつか自分のお店を持ちたいな、と漠然と考えながら仕事をしていました。
しかし、料理の世界の厳しさを知っていく中で、本当にお店を持ちたいのか疑問に感じるように。
深く考えてみると、お客さんに料理を振る舞うことよりもしたいことがあると気づきました。
“家族に美味しいご飯を食べてもらうことが一番嬉しい”
子どもの頃から、お菓子やご飯を作って母や祖母に振る舞うのが好きだった私は、
美味しい、上手だねと言ってもらうことが本当に嬉しかったんです。
いつか自分の子どもができたらおやつを作ったり、
家族で食卓を囲んで毎日一緒にご飯が食べたい。
昔からお父さんとお母さんがいて、子どもがいる、
そんな“ありふれた家庭”に憧れていたのもあり、
「家族と過ごす時間を大事にできる人生にしたいんだな」と思いました。
まだ結婚の予定はなかったものの、飲食関係の仕事をしていたら、
土日は休みじゃないし、夜も遅い。
家族で過ごす時間が少ないなと思い始めました。
それなら子どもができても働ける仕事にしようと医療事務に転職を決意。
医療事務を選んだ理由は、子育てしながらでも続けやすく、将来的にも安定して働けると思ったからです。
特に医療事務がやりたかったわけではありません。
今までと全く違う仕事に、飽きてしまわないか多少の不安はありましたが、
事務以外にも色々なことをやらせてもらえる環境の会社に入ることができました。
自分が小さい頃に寂しい思いをしたので、
子どもとは一緒にいられる時間を作ってあげたい。
そんな理想の生活がずっと心にあり、
いつか叶えたいという想いだけで全く違う仕事に転職しました。
会社員:仕事のストレスを抱えて眠れない
医療事務は淡々とPC前で仕事をこなすイメージでしたが、入った会社での業務は基本的な事務以外にもたくさんありました。
地元の新聞や雑誌に広告掲載する際の取材を任されたり、
新しい販促物のリーダーをしたりとさまざまな仕事も幅広く経験。
任せてもらえる仕事が増えると、頼りにされていると嬉しくなり、会社のために頑張ろうとやる気満々になりました。
しかし、仕事量も責任もどんどんと増えていき、いつしかキャパオーバーに。
断ったら嫌な顔をされるかなと心配になり、ただ言えずに仕事が増える毎日でした。
さらに新人教育もしていたため、上司と部下との間で板挟みになってストレスMAX。
不眠症になってしまい眠れない日々が続きました。
でも、朝になれば気だるい体を無理やり起こして、自分の電源を気合いでONにして出勤。
日曜日は完全にOFFモードで過ごす。
休みの日は誰かに気を遣わなくていい安堵感と、
また明日から仕事だという重い気分が交差していて、
朝から空を眺めては気づけばあっという間に何時間も過ぎていた、
なんてことも多々あります。
任された仕事だから最後までやらなきゃという責任感もあり
『しんどい』ということを言ってはいけないと思い込んでいたんです。
なんでも一人で抱え込んでしまう癖があったので、この時も誰にも相談できませんでした。
今思うと味方になってくれる上司や仲の良い同僚もいたので、
自分の気持ちを伝えてたらもっと心が軽くなってたかもしれません。
また、会社員時代のストレスはそれだけではありませんでした。
15年勤務していたので、店舗移動で働くメンバーが変わることもたくさんあり、
中には忙しい時にイライラした雰囲気を出す人や威圧感のある人と一緒になることも。
こういう苦手なタイプの人と同じ店舗になるのも辛かったです。
どうしても周りのイライラやピリピリした雰囲気を感じとってしまい、
自分が悪いわけでもないのに気になってしまう。
自分を取り巻く環境の些細な変化に気づいてしまい、
悪い方に影響されてしまうことも多かったです。
そんな日々を送りながらも、メンバー交代や仕事量が安定してきたことで、
だんだんと不眠症は改善されていきました。
いつも周囲の人々の顔色をうかがって、
なかなか自分の考えや思いを言えない日々。
大きなストレスを感じながらも、
周囲とうまくやっていくことだけを考えていました。
会社員:病気になって今後の人生を考える
事務職をしていた32歳の時に結婚。
私は子どもが大好きなので、結婚して子供を産んで…という人生設計を当然のようにしていました。
しかし、なかなか子宝に恵まれず、不妊治療を開始。
治療期間は5年ほどでしたが想像以上に大変で、身体への影響だけでなく仕事との両立にいつも頭を抱えていました。
毎月のように薬を飲んで、自分で注射をし、全身麻酔で卵子を採る。
どうしても子どもを授かりたいという一心で、お金も時間も体力もすべて治療にかけました。
そんな最中、子宮にガンが見つかりました。
その時の先生の説明も全く聞こえず、ショックで頭が真っ白に。
ガン治療のために不妊治療を中断することになりましたが、幸い初期段階で手術は不要。
高容量のホルモン剤を飲むことになりました。
まだ大丈夫だ!子どもを産める道は残っているとわずかな希望だけを頼りにガンの治療を開始。
手術より薬を飲む方が楽だと思っていましたが、想像以上に薬の影響は強く、体はだるく顔はまん丸になって全身がむくむ。
そんな自分の体の変化とメンタルへの影響もあり、気分が落ち込んで自分自身を嫌いになりそうな時期もあり辛かったです。
それでも、もう一度不妊治療をしたい!という強い想いからなんとか乗り越えられました。
2年間のガン治療を経て、再び不妊治療を再開することができた時は本当に嬉しかった。
ただ、私にはあまり時間がありませんでした。
薬で寛解しても再発する可能性がとても高かったからです。
3ヶ月ごとに入院し、細胞組織を採る手術で再発の確認をこまめにしながら
不妊治療を再開。
でも、その後どれだけ頑張っても、なかなか子どもを授かることができません。
そんな中で病気が再発。
もし再発したら手術が必要だと言われていました。
それでも諦めきれず、セカンドオピニオンを利用したり、
薬や特別な症例はないか本を読み漁ったり、自分なりに子宮を残す方法を模索しました。
結局別の道はなく……
不妊治療を断念して手術することを決めました。
昔から思い描いていた
お父さん、お母さん、子どもがいる、そんな普通の家庭が憧れ。
子どもの好物を作ってあげて家族で食卓を囲みたい。という夢は壊れてしまいました。
やるせない気持ちと悲しさはもちろんありましたが、
大事な人達にその事実を伝える事がわたしにとってはもっと辛かったです。
夫や夫の家族に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
また、祖母や姉、私を娘のように可愛がってくれていた父親代わりの叔父にもいい報告ができず、ましてや病気になってしまって悲しませてしまうことに……。
自分の発言によって相手の感情を乱すのが嫌な私にとって、周りの人を悲しい気持ちにさせてしまったことが心に重くのしかかりました。
手術の結果、思っていたよりもガンは広がっていたので、
最終的に抗がん剤治療も追加することに。
体の痛みや息苦しさに加え、だるくてご飯が食べられず体重も一気に減りました。
髪もどんどん抜けていき、自分の見た目が変わっていく悲しさの中で、
本当に元気になるのかなと弱気に。
それでも、治療が終わったら何しようかなとこれから先の未来を楽しく考えることが唯一の希望でした。
そんな中、子どもを産んで育てるという、人生で一番したいことができなくなってしまい、
他に自分のしたいことは何なのか?夢や目標も考え直し始めたんです。
元々、治療が終わったら事務職に復帰する予定でした。
でも、医療事務を選んだのは【子どもができても働きやすい仕事だから】という理由で本当にやりたい仕事ではありません。
自分がしたい仕事とか、働きやすい環境ってなんだろう。
周りの気分に左右されたくないし、人に気を遣わなくてもいい仕事だったら魅力的だな。
家で仕事ができたら最高だけどなぁ。
漠然とそんなことを考え始めました。
今まで自分の気持ちを抑えて、周りの顔色ばかり伺っていた。
周りを気にしすぎてストレスが溜まる生活はもう嫌だと思い始め、
ちょうどコロナ化だったこともあり、
在宅ワークという言葉を知っていた私は療養の合間にたくさん検索しました。
しかし、田舎に住んでいる私の周りには、そんな働き方をしている人は全くと言っていいほどいません。
都会と違って仕事の選択肢が少なく、職場に行って働くということが当たり前の田舎で、
果たしてそんな自由な働き方ができるのか?できたとしても稼げるのか?と
若干不安にも感じました。
うまくいくかはわからないけど、
思い描いていた未来が真っ白になったんだし、これからは自分を大切にしよう。
我慢しない!したいことをしよう!と決意しました。
つらい治療中、ずっとそばにいてくれたのは夫や愛犬。
子どもはいないけど大事な家族がいる。
家族といられる時間や家族のために時間を使いやすいのは、
家でできる仕事じゃない?
これからは周りを気にし過ぎない、
自分の気持ちに素直になれる働き方をしよう!と会社を退職しました。
人の顔色を気にしない、周りの気分に左右されない人生を目指す
治療をしながら、体に負担のないように少しずつ在宅ワークを始めました。
今はまだまだ目標金額には届いていませんが、自分らしく働ける環境を手に入れています。
これまでは周りのことを気にし過ぎて、自分の気持ちを素直に表現できませんでした。
もうイライラしている上司の顔色をうかがうことも、周りに気を使いすぎてストレスを溜めることもありません。
とはいえ、まだ道のりの途中です。
私は、1年後に在宅ワークで月30万円を稼ぐことを目指しています!
これから、在宅ワークをやってみたい!と思っている方に向けて
実際の経験や学びをお届けしていきます。
ぜひブログを見にきてもらえると嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
りこ